思想についての議論は、明確な時代区分を前提とする。政治思想が時代史と乖離して叙述されるとき、数多くの誤解と錯覚が引き起こされるからである。こうした理由から、イギリスの近代思想を論じる本稿でも、まず時代区分を明確にしたうえで議論を始めることにしたい。
ヨーロッパの政治思想史において「啓蒙主義時代」とは、通常一六八九年のイギリス名誉革命から一七八九年のフランス大革命に至る百年間を指す。ところで、ヨーロッパ史において「宗教フレーム」を脱ぎ捨てる空前絶後の政治思想的・文芸的・世界観的大変動が貫徹されたこの啓蒙主義時代に先立つ約百年間には、啓蒙時代を準備する血塗られた「前史」が展開された。流血が絶えなかった一七世紀のこの「百年前史」においても、それ以前のルネサンス時代とは対照的に、前代未聞の政治的激変と思想的・文芸的な胎動が起こった。一〇―一四世紀は本来的な中世時代であり、一五―一六世紀の中世末期はルネサンス時代である。ルネサンス時代には人間中心の文芸が蘇生した。しかしこの文芸復興は依然として、神概念とキリスト教信仰を固守する「キリスト教的宗教フレーム」の内に閉じ込められていた。しかしこの「百年前史」たる一七世紀は、たとえ神観念とキリスト教信仰を捨て去りはしなかったにせよ、すでに神概念を理神論的に変形させ、凄惨な教理論争を通じて既存のカトリック的聖書解釈を戦闘的に塗り替え、ルター・カルヴァン主義プロテスタント教理を際限なく細分化させることによって、既存の教会体制とも思想的に深刻な葛藤と摩擦が一般化した時代であった。
以前はこの時代を単に「ルネサンス時代」と呼びならわしてきており、今もそう呼ぶ者たちが残っている。しかし近年、文化史・思想史を専門とする一部の史家は、一七世紀のこの「百年前史」の時代を指して「バロック時代(Baroque Age)」と呼び始めた。これは時代名称である。バロック建築は、ルネサンスの均衡・調和・対称・論理・必然性と対立する奇怪さ・不均衡・奇想天外さ・非論理・詭弁・偶然性などによって特徴づけられる。「Baroque」とは本来「歪んだ真珠」を意味する語であるが、まさにバロック時代の特徴と比喩的に符合する面がないではない。こうした理由から、筆者もこれら文化史・思想史家たちのこの新たな時代概念を受け入れ、かの「百年前史」の時代を「バロック時代」と呼ぶこととしたい。
ただし、具体的にいつからバロック時代が始まるのかについては異論がありうる。時代史的な観点のみでヨーロッパ史を裁断する歴史家たちは、ルターの宗教改革が始まった一五一七年をバロック時代の出発点とし、三十年戦争を終結させ新旧両教の大妥協を成し遂げたウェストファリア条約が締結された一六四八年をその終着点と見なしたがるであろう。しかし宗教改革とプロテスタンティズムの宗教・政治思想もまた、中世とルネサンスの「キリスト教的宗教フレーム」から一歩も抜け出せずそのまま閉じ込められており、宗教戦争は国際的な次元では一六四八年に終結したものの、国内的には、たとえば一六八九年のイギリスでプロテスタント貴族たちがカトリック君主を追放した名誉革命の時期に至るまで継続した。一六四〇―一六六〇年のイギリス・ピューリタン革命もまた純粋な政治・社会革命とは見なせず、ルター主義とカルヴァン主義を奉じるピューリタン諸派、すなわちカルヴァン主義プロテスタントが、ピューリタンを弾圧していたイギリス国教会(聖公会)の首長チャールズ一世を打倒した、すなわち「異端君主」を破門した宗教戦争としての性格をも色濃く帯びていた。そして一六八八―一六八九年の名誉革命もまた、国教会派トーリーとプロテスタント系ホイッグとが連合してオランダの外国軍を招き入れ、カトリック君主ジェームズ二世を異端君主として追い立て破門した、一種の国際的な宗教内戦であった。またちょうどその頃、フランスでは三十年にわたる宗教内戦「ユグノー戦争」を終息させ、ユグノー(フランスのプロテスタント)に一定の範囲で信教活動を許したアンリ四世のナントの勅令(一五九八年)が、一六八五年にルイ一四世によって廃棄され、ユグノーに対する宗教弾圧が再開された。
このように、ルネサンス末期が純粋な宗教戦争の時期であったとするならば、バロック時代は政治・社会革命的側面が加わったとはいえ、宗教戦争もなお入り混じって持続した時代であった。一言で言えば、「バロック時代」はルターの宗教改革(一五一七年)から始まったとも言えないが、さりとてウェストファリア条約(一六四八年)で終わったとも言えないのである。
ただし、この段階で明確に言えることは、イギリスにおいて宗教戦争が一六八九年のイギリス名誉革命によって最終的に終息し、逆にカトリック教徒とピューリタンに対する弾圧が開始されたということである。フランスにおいてもユグノー弾圧は依然として続いていたとはいえ、ルイ一五世(在位一七一〇―一七七四年)の即位とともに緩和され始めた。魔女裁判もヨーロッパ全域とニューイングランドで依然として続いていたとはいえ、次第にまれになっていった。さらにヴォルテールは、一七六三年、「普遍的寛容」を要求する寛容論によって、なお残存する宗教弾圧と宗教対立、残存する魔女狩りに最後の一撃を加えた。それゆえ、宗教戦争の終焉が始まる年を技術的に一六八八年に置くことは妥当であると言えよう。そしてバロック時代の「出発点」については、ルターの宗教改革の開始時点(一五一七年)とする見解を退け、ジョージ・ブキャナンのスコットランドの王権(De Jure Regni apud Scotos)が公刊された一五七九年に置くのが適切であると考える。ブキャナンはこの書において、新旧両教に共通する理論である王権神授説を打ち砕き、新たに王権民授論を提唱し、キリスト教教理からほぼ純化された暴君放伐論を樹立することによって、ついに新旧両教の異端君主破門論を乗り越えたのであり、その後のスアレス・ミルトン・グロティウス・ロックらの人民主権論と暴君放伐論は、ブキャナンを「剽窃」してあれこれと変形させる形で、暗々裡にこれを継承したからである。スアレスは、カトリック人民による異端君主(プロテスタント君主)の放伐と、異端君主打倒のためのカトリック国家による宗教侵略とを正当化した代表的論客であり、ミルトン・グロティウス・ロックは、ピューリタンを弾圧する国教会派君主を処刑したピューリタン革命と、宗教的寛容を拡大しつつあったカトリック君主を追放した名誉革命の代表的論客たちではなかったか。
このように見れば、「バロック時代」はイギリス思想史を基準とすれば一五七九年から一六八八年までの百余年間であり、「啓蒙主義時代」は一六八九年から一七八九年までの正確に百年間である。したがってバロック時代と啓蒙主義時代とは、合わせて二百余年という長きにわたる期間を包摂する。イギリスとヨーロッパにおけるこの二〇〇年間、繰り返されながら激化した文化的・思想的激変と政治的衝突は、いずれも孔子哲学と中国文化の衝撃によって既存の「キリスト教的宗教フレーム」が歪められ、あるいは打ち砕かれ、新たな政治哲学と文芸思潮が奮起する中で発生したものである。この二〇〇余年の間、ヨーロッパとイギリスでは文化・芸術思潮が大きな変化を経て、近代哲学としての啓蒙哲学が興起し、その影響力を急速に拡大した。したがって本書では、バロック時代と啓蒙主義時代のイギリスの文化・芸術家と啓蒙哲学者たち、すなわちブキャナンからフランシス・ベーコン、ジョン・ミルトン、ジョン・ウェッブ、リチャード・カンバーランド、ウィリアム・テンプル、イサーク・フォシウス、ナサナエル・ヴィンセント、ジョン・ロック、シャフツベリ、ジョン・トレンチャードとトマス・ゴードン、マシュー・ティンダル、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミスに至る一五名のイギリス思想家を、孔子哲学が与えた衝撃と影響という観点から分析する。この一五名の思想家たちは、一七・一八世紀の政治思想を主導しただけでなく、ホイッグとトーリーの別なく、バロック・啓蒙主義時代のイギリスの現実政治を直接・間接に鋳造した「孔子崇拝者たち」であり、「孔子礼賛者」、あるいは「孔子剽窃者たち」であった。
バロック時代にも、ヨーロッパでは宣教師・商人・船長・医師・航海者・軍人・旅行家・冒険家たちが著した数百種の中国報告書や書簡集が出版され、また、アジアに関する書物も数百種が刊行された。これらの書物のうち約二五種は南アジアを扱い、約一五種は東南アジア内陸地方を扱い、約二〇種は東南アジア諸島を扱った。残りの六〇余種は東アジアと極東諸国のみを集中的に扱った。したがってバロック時代において、「これらの書物によってまったく影響を受けなかったヨーロッパの知識人はほとんどいなかったであろうし、それゆえ当時のヨーロッパの文物、および文化・芸術・哲学・科学にその影響が見られないとすれば、それこそ実に驚くべきことであろう。」¹ 一七世紀のイギリスにおいても、中国文化の影響はすでに普遍化しており、孔子哲学は拡散の一途をたどっていた。
イギリスはスペイン・ポルトガル・オランダより遅れて東方貿易に参入し、また一七世紀になっても孔子経典の翻訳書や中国関係の書物をほとんど刊行したことがなかった。しかしイギリス人は、一六世紀半ばからポルトガル・スペイン・イタリア・フランスで出版された中国報告書や極東旅行記、孔子経典の翻訳書、あるいは中国・孔子研究書を熱心に輸入して読み、あるいは英訳・出版して大衆に普及させた。ポルトガル・スペイン・イタリアの征服者・冒険家・略奪者・宣教師たちは、喜望峰を回る東方航路が開拓された一六世紀半ばから、極東の儒教文明と孔子哲学を熱心にヨーロッパへと運び込んだ。その時から一六世紀末までにイベリアとイタリアで刊行された中国関係の書物や中国報告書としては、ポルトガル人無名氏の中国報告(一五五五年)、フェルナン・ピントの書簡集(一五五六年)とピントの遍歴記(一六一四年)、ガレオテ・ペレイラの中国報告(一五六四年)、ガスパル・ダ・クルスの中国風物論(一五六九―一五七〇年)、マルティン・デ・ラダの公式中国報告書(一五七五年)、ベルナルディーノ・デ・エスカランテの中国航海論(一五七七年)、フアン・ゴンサレス・デ・メンドサのシナ大王国誌(一五八五年)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノとドゥアルテ・デ・サンデのローマ教皇庁訪問日本使節記(一五九〇年)などがあった。² そして一七世紀初頭には、サミュエル・パーチャスのパーチャス、その巡礼(Purchass, His Pilgrimage)(一六一三年)と、マテオ・リッチ・トリゴーの中国人の間におけるキリスト教布教(De Propagatione Christiana apud Sinas)(一六一五年)が出版された。³ そして、セメド、マルティーニ、キルヒャー、ナバレテ、ニューホフ、マガリャンイスらによる各種の中国誌が、一七世紀後半を通じて数多く刊行され続けた。
ヨーロッパに孔子を最初に紹介した書物は、ヴァリニャーノ・サンデ両神父のローマ教皇庁訪問日本使節記であった。孔子とその哲学に関する彼らの記述は、一五七九年にミケーレ・ルッジェーリ神父に従って最初に広州府を経て正式に中国に入国し、肇慶と韶関に居住する許可を得ることに成功したマテオ・リッチの報告書に基づいていた。ヴァリニャ性)の光(light of nature)」の哲学として紹介している。その後「啓蒙(Enlightenment)」の「光(light)」となったこの「本性の光」は、世界を照らすと称しながらもかえって暗くしてしまった「啓示の光」「信仰の光」「恩寵の光」に取って代わることになる。パーチャス・マテオ・リッチ・セメド・マルティーニ・ラ・モット・ル・ヴァイエらの著書は、ヴァリニャーノとサンデがかつて「本性の光」の哲学として紹介した孔子哲学を、改めて「本性の光の哲学」として再確認するものであった。一七・一八世紀の啓蒙の「光」を深く掘り下げてみれば、西洋の宣教師たちが大学の「明明徳」「天之明命」「皆自明也」というその「明」、中庸の「自誠明」「自明誠」「誠則明矣、明則誠矣」「著則明、明則動」というその「明」、あるいは端的に大明帝国のその「明」を「lumière」ないし「light」(光)として理解し、この「光」を啓蒙の「光」として投入したこと、あるいはドイツにおいては大清帝国の「清」を(Aufklärungの)「Klarheit」(清らかさ・明るさ)として理解し、啓蒙主義の衛生的・血統的な「清潔」と、宗教的・イデオロギー的な「純粋化・明瞭化」の武器として投入したことが分かるのである。
さまざまな報告書や著作を通じて中国を紹介したイベリア人・イタリア人と、イギリス人パーチャス、そしてそれに続く各種の中国誌は、この「本性の光」あるいは「自然の光」の哲学とともに、明代中国帝国が自由・平等国家であり、繁栄する市場経済・福祉国家であり、同時に信教の自由と寛容の国家でもあるという驚くべき事実を、宗教対立の多岐化によって四分五裂していたヨーロッパに初めて伝えたのであった。かくして中国と孔子に関する新たな情報・知識の洗礼の中で、ヨーロッパの啓蒙思想が胎動し始めたが、イギリスにおいてはブキャナン・ベーコン・ミルトン・ウェッブ・テンプルらが先駆けとなったおかげで、大陸よりも先に啓蒙思想が芽生えた。
フランス・スペインなどを頻繁に往来しながら、イギリスにおいて誰よりも早く中国の政治文化に接したジョージ・ブキャナンは、一五七九年に公刊されたスコットランドの王権において王権神授説を否定し、王権民授論と暴君放伐論を主張する民本主義的人民主権論を説いた。ブキャナンのこの儒教的・民本主義的な王権民授論は、ピューリタン革命の思想的原動力となった。続いてフランシス・ベーコンは、中国の尚古主義的文化と経験主義に関する著述(一六二七年)を通じて、近代的経験論と理想国家的な科学技術立国論を樹立した。そしてジョン・ミルトンは、ブキャナンの自由・平等論と暴君放伐論を継承し、ピューリタン革命の公式イデオローグとして、また、イギリス・クロムウェル共和国の外国語担当書記官として、アレオパジティカ(Areopagitica)(一六四四年)、王と為政者の在位権(The Tenure of Kings and Magistrates)(一六四九年)、偶像破壊者(Eikonoklastes)(一六四九年)などを公刊して言論の自由を説き、人民主権論・暴君放伐論を論証し、これを基盤にチャールズ一世処刑の正当性を論じた。
一七世紀半ば以降には、いっそう正確かつ詳細な中国報告書が続々と刊行され、孔子が初めて紹介されてから八〇余年にしてついに孔子経典が翻訳された。セメド(Alvaro de Semedo, 一五八五?―一六五八年)の中華帝国史(スペイン語版一六四二年、イタリア語版一六四三年、フランス語版一六四五年、英語版一六五五年)、マルティーニ(Martino Martini; Martinus Martinius、中国名:衛匡国、一六一四―一六六一年)の中国誌(一六五九年)、キルヒャー(Athansius Kircher, 一六〇二―一六八〇年)の中国図説(一六六七年)とニューホフの北京使節記(一六六五年)、ナバレテの中華王国誌(一六七六年)、マガリャンイスの新中国誌(一六八八年)、ル・コントの中国の現状に関する新覚書(一六九六年)、デュ・アルドの中華帝国全誌(一七三五年)などが出版されたのである。⁴ そして一六六二―一六八七年には、インタルチェッタ、ダ・コスタ、ヘルトリヒ、ルジュモン、クープレらによって、孔子経典のうち論語、大学、中庸がラテン語に完訳され、パリで出版された。一七一一年には、フランソワ・ノエルがプラハにおいて右の三書と孟子、孝経、小学の計六書をラテン語に完訳し、中華帝国の六経典として出版した。⁵
中国・孔子関連の書物がこのように夥しく刊行される中で、ヨーロッパ人とイギリス人による中国礼賛と孔子崇拝は絶頂へと向かっていった。こうした流れの中で、中国文化と孔子哲学の影響力は広まっていった。この期間、イギリスの啓蒙思想家たちは、ピューリタン革命後の王政復古と名誉革命という政治的激変を経ながら、夥しい数の書物を世に送り出した。ジョン・ウェッブ、リチャード・カンバーランド、ウィリアム・テンプル、ナサナエル・ヴィンセント、イサーク・フォシウス、ジョン・ロック、シャフツベリ、トレンチャード、ゴードン、ティンダル、ヒューム、アダム・スミスらがその面々であった。名誉革命前後、これら「哲学の巨匠たち」を通じて、イギリスの啓蒙哲学は大陸の啓蒙主義を凌駕するに至る。
他方、一八世紀に対極東貿易を急速に拡大したイギリスは、中国商品の最大輸入国として台頭し、中国および極東の文物を最も多く輸入する国となった。これとともに、イギリスでは中国風の芸術・工芸文化の風潮である「シノワズリ」が、フランスをも凌ぐほどに隆盛した。イギリスの「シノワズリ」とは、中国の文化・芸術・工芸そのものを指すのではなく、中国の文化・芸術・工芸を「模造」したヨーロッパ版の中国風文化・芸術・工芸様式を指す。「イギリス版シノワズリ」とは、平たく言えば中国の文化・芸術・工芸の「イギリス版リメイク」であった。
また、イギリスは東方貿易の拡大とともに、中国文化・経済および孔子哲学の学習、そして中国の先進的な政治制度・政治思想と倫理道徳の輸入においても、ヨーロッパで最も先進的な国となった。「中英ガーデン(the Chinese-English garden)」理論の創出と造景庭園の設置、そして中国漆器・陶磁器・壁紙などをリメイクした高品質のイギリス製中国模造品の大量生産は、イギリスにおけるシノワズリの隆盛と輸入代替産業の繁栄を示す好例である。そして世襲的・血統的なジェントルマンが、中国の「紳士」(マンダリン)を模倣して「道徳的」なジェントルマンとなったことは、イギリスの倫理道徳の先進化を示す好例である。孔子哲学と中国の紳士に関する知識が広まる中で、イギリスのジェントルマンはもはや「ジェントルマン」として生まれたから「イギリス紳士」なのではなく、道徳的徳性と学識を備え、国家試験によって検証され、公務を遂行することによって道徳的品位と実力を証明した「中国紳士」を模倣したからこそ「イギリス紳士」となったのである。かくして「中国紳士」を範とするイギリスのジェントルマンは、もはや「血統的・世襲的」な意味でのジェントルマンではなく、「道徳的」な意味での「イギリス紳士」として「再誕生」を遂げるに至ったのである。
そして孔子主義と儒教文明の影響のもとで、イギリスの思想・文化・文物は大変動をこうむり、公然と孔子を賛美・崇拝したベーコン・ミルトン・ヴィンセント・ロック・シャフツベリ・ティンダル・トレンチャード・ゴードン・ヒューム・スミスらのような――全ヨーロッパを揺るがした――啓蒙主義の巨匠たちが続々と登場した。孔子哲学が広まり啓蒙思想が普遍化するにつれ、ケンブリッジ・プラトン主義は自然とイギリス思想界の周縁へと押しやられた。中国の経験的な科学・技術から近代経験論を樹立したベーコンと、この伝統を継ぐイギリス経験主義の哲学者たちは、経験主義的な孔子哲学と中国の学問とを――大陸の哲学者たちがしばしば犯す「合理主義的歪曲」を伴うことなく――容易に自分たちの「自由な思考(free-thinking)」の中へとほぼそのまま取り込んだがゆえに、一躍「啓蒙運動の中心国」であり「政治先進国」として急浮上することができたのである。
かくして一八世紀のイギリスは、啓蒙哲学とシノワズリという二つの側面において、大陸を先導するに至る。大陸における中英ガーデンの普及、フランスの文化的・学術的達成が「小品」であるとすればイギリスのそれは「傑作」であると称賛したヴォルテールの哲学書簡、合理主義から経験主義へ、知性主義から徳性主義へというヴォルテールの哲学的「転向」、ケネーとミラボー(Victor de Riquetti le Marquis de Mirabeau, 一七一五―一七八九年)によるロック経験哲学の受容、⁶ パリにおいてロックとヒュームの翻訳書が大流行した事実などは、いずれも啓蒙主義時代のイギリスの文化的・哲学的ヘゲモニーを十分に証明するものである。
イギリスの文化と哲学は、一七世紀初頭から次第に大量化・大規模化していった極東文物の輸入、そして孔子哲学と中国の政治文化が及ぼす思想的・文化的・制度的・経済的衝撃などによって大変動をこうむりながら、ヨーロッパを席巻し始めた。極東文化の拡散とイギリスの文化変動の中で、イギリスの思想界と文化界はほとんど例外なく孔子主義と親中国的気運に呑み込まれていった。もちろん、こうした「呑み込まれ」に対するイギリスの教団やキリスト教的ヨーロッパ中心主義者たちの「衛正斥邪」的な反発もまた存在した。イギリスの衛正斥邪派とは、バクスター・ウォートン・バークリーら聖職者・神学者と、ジョージ・アンソン海軍提督、小説やエッセイを書いた奴隷貿易商ダニエル・デフォーなどであった。以下では、彼らの主張を詳細に分析し、その誤謬と無知、そして事実無根の中傷を明らかにする。もちろん孔子崇拝者や中国礼賛者たちにも、孔子と中国に関する無知と誤謬がないわけではなく、彼らの欠陥についても漏れなく明らかにするつもりである。
イギリスの文化変動とは、古典主義の退潮、シノワズリとロココ芸術の台頭と席巻、中国式造園論と「中英ガーデン」型の造景庭園の普及、シノワズリ・ロココ建築とゴシック建築との結合と流行、中国的な美意識と悠久性に由来するロマン主義の発源などであった。イギリスのロマン主義が、悠久なる過去の歴史的経験を重んじる孔子の経験主義哲学と中国の文化芸術の影響から発生したという意外な事実は、極東アジア人および世界の人々に対して、儒教文明の――そうでなくとも多角的に立証されつつある――優越性を、また別の視点から改めて気づかせてくれる、歴史の一頁であろう。
イギリスの政治制度は、中国の内閣制、中国式官僚制、筆記試験、公務員任用試験の導入、世襲貴族身分の社会経済的弱体化と政治的退場、国民国家(平民国家)の確立などによって、次第に近代化されていった。また、孔子哲学の影響のもとで理神論が優勢となり、脱キリスト教化・世俗化が進むにつれ、イギリス社会の倫理道徳も同様に脱宗教化・世俗化され、本性的な倫理道徳へと転換していった。
政治哲学的には、孔子哲学の影響によりヨーロッパで最初にイギリスにおいてブキャナン・ミルトン・ロックによって近代的な自由・平等・革命の理念が創出され、続いてシャフツベリ・ハチスン・ヒューム・アダム・スミスらモラリストたちの議論の中で、道徳哲学は孔子主義的な本性道徳論へと刷新されることによって、一切の「啓示道徳」の枠組みと内容を脱ぎ捨て、完全に脱キリスト教化・脱呪術化・世俗化された。また、「小国=民主政、大国=君主政」というヨーロッパの伝統的な政治図式はヒュームによって打ち砕かれ、「領土的な広大さ」のおかげで「自由と中庸」の政治を同時に享受してきた広大な広域国家中国をモデルとして、広大な北米植民地の独立に備える論理が提供された。かくして独立後に民主共和制を採用したアメリカは、ヨーロッパ全体を合わせた領土と国力を凌ぐ「広大な」民主国家として、ヨーロッパで民主主義が危機的状況に陥るたびに近代民主主義を守護する「最後の砦」となることができた。もし「広大なアメリカ民主主義」が存在しなかったならば、軍国主義、ファシズム、ナチズム、共産主義など各種の反民主主義イデオロギーと反民主勢力から、今日われわれが享受しているこの民主主義は守られ得なかったであろう。また、アダム・スミスは孔子の市場哲学と中国の市場経済、そして中国の影響のもとで展開されたケネーの重農主義的自由市場論を基盤として近代的自由市場論を完成させ、反穀物法運動家たちとイギリス議会は穀物輸入禁止法を廃止することによって自由市場制度を完成させた。
イギリスはシノワズリ、そして孔子哲学と中国の政治文化の影響のもとで、啓蒙哲学と政治思想、そして新たな政治・経済制度を最高度に発展させることによって、ヨーロッパで最初に「高度近代(high modernity)」の幕を開いた。以下では、これらの点を文芸批評家、芸術家、啓蒙哲学者を中心に精密に解き明かしていきたい。孔子哲学の影響のもとで活動したイギリスのモラリストとして、まず第一に挙げるべき哲学者はジョン・ミルトンとナサナエル・ヴィンセントである。ミルトンはクロムウェルの「自由共和国」の公式イデオローグとして、儒教的な言論・出版の自由と信教の寛容、中国式の学校・教育論、人間の自然的自由・平等論と暴君放伐論とを土着化・大衆化させ、本性道徳論を大衆化させた。そしてチャールズ二世の主任説教牧師ヴィンセントは、一六八五年、王命によって宮廷説教集栄誉の正しい概念を公刊することによって「大学」の一部を最初に英訳し、孔子の「天下無生而貴者也」を「王族を除いて、生まれながらにして高貴な者は誰もいない(None are born great but those of Royal Family)」と英訳することによって、ロックの生得的・自然的平等論へと至る「イギリスの道」を切り開いた。ジョン・ロックはミルトン、ヴィンセントらを継承して、自然的自由・平等論とヨーロッパ的な革命権(抵抗権)理論を完成させた。
イギリスの理神論は、ベーコン・ニュートン主義的な科学革命とともに、さらに新たな発展の原動力を得て、中国をそのモデルとして掲げた。ウォルター・デイヴィス(Walter W. Davis)は、この思想的・歴史的連関について次のように述べている。「相互に連関した宗教領域と倫理領域とにおいて、理神論が、人間のあらゆる努力の分野に適用されるべき自然法則の探求を刺激したニュートン革命によって培われたことは疑いない。しかし、中国が一八世紀の思想家たちに知られていた理神論的倫理の唯一の生きた原型を提供したという事実――したがって、もはやユートピア的思弁だけでは十分ではなくなったという事実――を想起せよ。そうすれば、中国愛好家たちと主導的な理神論者たちとの間の親和性は、あまりにも甚だしく、容易に無視することはできないであろう。」⁷ 理神論者たちはそのほとんどが中国愛好家であったからである。
中国愛好家ピエール・ベールと親密な関係を結び、彼から学んだシャフツベリは、孟子哲学から是非の感覚論と道徳感情論を取り入れることによって本性論的道徳哲学を開創し、理神論を新たな次元へと引き上げ、ハチスンはこれをさらに発展させた。ヒュームとアダム・スミスは、シャフツベリとハチスンの道徳感情論を本質的に豊かにし、多角的に精緻化した。いずれも中国愛好的・孔子主義的なモラリストであったシャフツベリ・ハチスン・ヒューム・スミスへと連なる道徳哲学の思潮は、徹底して世俗的な「近代倫理学」へと向かう偉大な道程であった。この道程において、トレンチャード・ゴードンのような理神論者たちは孔子をイエスよりも偉大な人物として崇拝し、急進的なホイッグたちはイギリスとヨーロッパを全面的に「中国化・儒教化」することを唱えた。
ヒュームとアダム・スミスは、中国の自由市場制度を受容し、ケネーの自由市場的重農主義を発展させて近代的自由市場論を完成させた。ヒュームの自由商工業論は、孔子の「無為而治」というテーゼと秘められた形で関連しており、スミスの「見えざる手」は、ケネーによって「自然秩序(ordre naturel)」として概念化された孔孟の天地之道・無為而成、および司馬遷の「自然之験」概念と、「見えない形で」緊密に結びついている。西欧における西遷が完了したのである。イギリスにおいて自由貿易が許容されたのは、スミスの自由市場理論が完成してから実に七〇年後のことであった。それにもかかわらず、スミスの自由市場理論は、イギリスを近代化へと導いた近代理論の中でも代表的な理論として挙げられねばならない。以下では、広範な史料と資料を根拠に、これについて綿密に精査し、精緻に論証していくこととする。
¹ Donald F. Lach and Edwin J. van Kley, Asia in the Making of Europe, Vol. III (Chicago: Chicago University Press, 1993), 1890頁.
² これらの中国報告や中国関係書籍についての詳細な分析は、参照: 黄台淵, 공자철학과 서구 계몽주의의 기원(『孔子哲学と西欧啓蒙主義の起源』) (坡州: 靑溪, 2019), 602-714頁。
³ パーチャスとマテオ・リッチの中国報告に関する詳細な分析は、参照: 黄台淵, 공자철학과 서구 계몽주의의 기원(『孔子哲学と西欧啓蒙主義の起源』), 957-975頁。
⁴ これらの書物の内容に関する詳細な分析は、参照: 黄台淵, 공자철학과 서구 계몽주의의 기원(『孔子哲学と西欧啓蒙主義の起源』), 975-1041頁。
⁵ 孔子経典の翻訳史については、参照: 黄台淵, 공자철학과 서구 계몽주의의 기원(『孔子哲学と西欧啓蒙主義の起源』), 1041-1093頁。
⁶ Adolf Reichwein, China und Europa im Achtzehnten Jahrhundert (Berlin: Oesterheld Co. Verlag, 1922), 111頁. 英訳本: Reichwein, China and Europe - Intellectual and Artistic Contacts in the Eighteenth Century (London・New York: Kegan Paul, Trench, Turner & Co., LTD and Alfred A. Knopf, 1925), 102頁; Lewis A. Maverick. China - A Model for Europe, Vol.II (San Antonio in Texas: Paul Anderson Company, 1946), 119頁.
⁷ Walter W. Davis, "China, the Confucian Ideal, and the European Age of Enlightenment" Journal of the History of Ideas Vol. 44, No. 4 (Oct.-Dec. 1983), 546頁.